懐かしい蒸気機関車

追分機関区 は炭鉱から産出される石炭輸送の中継地として大きな役割を果たして来ました。明治25年に室蘭線が開業と同時に追分機関庫として始動しました。昭和11年に追分機関区と名を改めました。また 国鉄時代 の最後まで残った機関区で、昭和51年に完全無煙化になってから機関区で火災が発...
旧室蘭駅は三方を小高い山に囲まれているのでその山から俯瞰写真をよく撮りました。この当時の室蘭の町は駅を中心に発展していた事が分かります。貨物のほとんどは夕張炭鉱から産出される石炭です。国のエネルギー政策の転換で石炭から石油に変わり、室蘭駅周辺も大きく変わりました。駅周辺が現在と...
音威子府駅 は旭川駅から129.3キロのところにあり、天北線の分岐駅でした。天北線廃止後もオホーツク海方面に向う路線バスの重要な拠点で、人口の最も少ない地域でありながら特急列車が停車する駅です。佐久駅は音威子府駅から2つ目の駅で天塩川の脇を 宗谷本線 が走っていました。現在は無...
宗谷本線 は旭川駅から稚内駅を結ぶ全長259.4キロの路線で、 芦川駅 は2001年に廃駅となりました。。旭川から226.6キロのところにあった駅なので現在残っている駅では徳満駅と兜沼駅の中間に位置します。当時を思い出すと抜海駅にも2駅くらいで着いた記憶があります。この路線は太...
石北線 遠軽駅 は駅には珍しいスイッチバックの駅で名寄線、湧別線との接続の関係で石北線に関してはスイッチバック形式をとったようです。遠軽駅は名寄線の終着駅だったので遠軽機関区があり駅の構内も広々としていました。豪雪地帯と言う事もあり広い構内を除雪するため大勢の除雪作業員が出てス...
今朝の新聞記事で石北本線の常紋トンネルの新規工事が出来ずに、補修工事で延命をしている事が書かれていました。このトンネルは高さも幅も狭く、私も一度このトンネルを歩いて金華駅側に出た事がありますが、万一列車がトンネルに入って来たら退避出来るスペースがほとんど無い危険なトンネルでした...
名寄本線 は遠軽駅から名寄駅までの全長138.1キロの路線でした。 上興部駅 と一橋駅の間に 天北峠 があり1000分の25の勾配が続く北海道の鉄路の峠では有数の難所です。貨物の少ない時は9600型蒸気機関車が単機でこの峠に挑みます。峠の途中で線路に積った雪で動輪が空転して登る...
湧綱線 は中湧別から網走までの89.8キロの オホーツク 海を車窓から望みながら走る路線でした。中湧別を出た貨物列車は サロマ湖 畔にある 計呂地駅 を通過して、湧綱線最大の上り勾配に挑みます。この路線の貨物の編成はそれほど長くはないので、粘り強く走る9600にとっては余裕の走...
小沢駅を発車すると倶知安峠の上り勾配が待ち受けています。SLニセコ号は軽快なドラフト音を残しながら峠を駆け上がって行きました。
然別駅を通過したSLニセコ号は稲穂峠に向う直線に差し掛かりました。国道5号線とクロスしている場所でこの日も30人を超える鉄道マニアが集り盛んにシャッターを切っていました。機関士さんによって煙のだしからも様々です。元機関士さんから聞いた話ですが石炭を入れてから釜の中を叩くと煙が出...
2012年5月19、20日の2日間室蘭港開港140周年記念行事としてC11207号機が登別〜室蘭間を営業運転しました。室蘭本線は全国でも最後までSLの残った路線でした。1975年12月14日午前11時3分室蘭駅を発車したC57135号機が最後のさよなら列車となりました。それから...
SLニセコ号の汽笛の音がニセコの山に木霊します。満員の乗客を乗せてニセコ駅に到着しました。3分間停車して発車しました。
2014年12月の運行を最後にSLニセコ号とともに廃止となった人気の観光列車、SL函館クリスマスファンタジー号は、函館クリスマスファンタジーの開催の期間中、函館駅〜大沼公園駅間を日に2往復していました。車窓の後方に流れる蒸気機関車からの煙を眺めながら終点の大沼公園駅までちょっと...
SLニセコ号として長年親しまれて来た観光列車でしたが2年前に残念ながら廃止になりました。稲穂峠に木霊する汽笛の音が忘れられない思い出になりました。
室蘭本線は長万部から岩見沢までの全長211キロの路線で現在でも北海道の鉄路の大動脈として重要な役割を果たしています。平坦な路線ですが栗山駅〜栗丘駅間は丘を越えなければならず,勾配をトンネルで緩和していますが長大な貨物を引くD51にとっては最大の難所です。三笠炭鉱などから産出され...
名寄本線は名寄駅から遠軽までの全長138.1キロの北海道の内陸からオホーツクに向う路線でした。中でも一橋駅から上興部駅の天北峠は1000分の25の最大勾配が続く最大の難所でした。貨物の長い時には9600型蒸気機関車が2台連なる重連列車でこの峠に挑みました。時には峠の途中で空転し...
夕張の人口が最も多かった昭和35年の人口は116908人でこの年をピークに昭和50年は約50000人と、石炭産業の衰退とともに多くの人がこの石炭の町夕張市から離れていきました。私が訪れた昭和50年の夕張の町の様子は多くの炭鉱住宅が建ち並び、町の商店街も活気にあふれていました。鉄...